2007年ワンダの矢島舞美と℃-ute、総論
総論、って、おおげさな。
舞美を大阪、名古屋、と見てきて、相変わらず、
持ち前のバネと瞬間的に見事にコントロールされるパワーから
生み出される、跳ねるようなリズミカルなダンス、それのキレ、
下手ながらもどこか温かみのある歌声と、
一生懸命な作り笑顔。(冗談です)
そして、相変わらず美しく、かわいく。
アイドルとして申し分ないんだけれども、
何か正直なところ、何もかもがここで止まってしまった、
成長しきって限界点に到達した感がかなりすごい。
これ以上に何かがプラスされて、すごいことになる、
みたいな期待感が少なくなってきたのは悲しいところではあるなぁ。
でも、その感想は、かなり以前から
舞美をじっくり、しつこく見てきた俺の感想であって、
今になってもまださっぱり舞美のほうを
見てくれていない人達は、いつかそのうちに
美しく成長した舞美に「偶然」目を向けた時に
きっと衝撃を受けるのだろう。
それはいつなのかはわからないが、
その「時」は確実に近づいているように思う。
それにしても、愛理のキラキラ感はすごい。
あの「キラキラ感」を俺は以前の舞美に見ていたんだけど、
っていうか、今もたまにその「キラキラ感」を見せてくれるんだけど、
愛理の「キラキラ感」のほうがすごすぎて、
あれだけ人がいるのに、あまり気づかれていないのである。
愛理は今、一番ハロプロでアイドル的だと思う。
めぐが抜けた℃-uteは、愛理がど真ん中にセットされて、
何かから開放されたかのように「アイドル」で
ガチガチにチューニングされていた感じであった。
先に言っておくと、めぐが邪魔だったとは俺は思っていない。
むしろ俺はめぐに残っていて欲しかった。すごく。
しかしながら、めぐの才能は℃-uteが今回見せた
「アイドル」とは対極の「アーティスト」なものであって、
めぐが抜けた結果、完璧に「アイドル」の方向性にのみ
決め撃ちにできるようになったからか、
℃-uteというユニットの方向性から
完全に迷いのようなものが消し去られていた。
めぐが抜けたことがプラスになった、とは思いたくはない。
だが、そういう結果になるかもしれないと感じたのである。
そして、それは悪いことなのかというと、良いことなのではあるが、
めぐも好きだったファンには悲しい結末であることも事実である。
しかし、そのめぐも好きだったファンにとっての悲しい結末
(ようするに、めぐがいなくなったがゆえに迷いが無くなって
良い方向性が生まれたとなってしまうこと)は
℃-uteのメンバーの努力の結晶であることも
十分理解されるべきであるし、俺も理解している。
少なくとも今言えることは、
まだ℃-uteを諦めるには早すぎるということだ。