大野いとは「高校デビュー」で「非コミュ」をスクリーン上に形にしたという快挙を成し遂げた。
▼梅田でもらった、大野いとちゃんのサイン。
「高校デビュー」で演技デビューになった、大野いとちゃんの話。
基本的に俺は若手の女優さんでもそれなりの演技力は求めるし、
ちょっとでも演技内容に「なんだかなー」とか思うと、
とりあえず距離を置いてしまうんだけども。
それを考えたら、石原さとみは最初から異常に演技力があった。
彼女と比べたら大野いとの演技力なんて、演技力でも何でもない。
「高校デビュー」を見てもらえれば分かると思うのだが、
お世辞にも演技力があるとは言えない。というか、かなり、ない。
台詞まわしは棒読みではないが、感情が入ってるとか、
どうのこうの言えるようなレベルにも届いてすらいない。
だからと言って「高校デビュー」という映画が「ハズレ」ではない、のだ。
そこが異常なのだ。
演技力がない人物が演じているのに「アタリ」なのである。
かと言って、大野いとの「素」でもない。
彼女が演じる「春菜」が大野いとそのものだから問題なかったんだろう。
という向きもあるようだが、決してそんな事はない。
大野いとはどちらかというと、天然でおっとり、
自分から何かをどうのこうのしようとするような、
「押し」の強い人物ではなさそうなのである。
対して「春菜」はぶっ飛んだ役で無駄に「押し」も強い、
厚かましい人物である。
そういう意味では、大野いとは「春菜」を演じている。
ではいったい「高校デビュー」という映画内で、何が起こったのか?
演技力がない人物が演技をし、観客を「訳が分からない納得」に導くのは、
一体何が原因なのか?
演技力のなさが「非コミュ」味を演出した。
簡単に言うと、大野いとが演じた春菜は、
「非コミュ」の人物そのものであった。
日常で誰かと会話をする時に「お前、何かのセリフを読んでるのか?」
というような違和感のある気持ち悪い会話を行う人物に、
会った事がある人は世の中にたくさんいるだろう。
そういう「非コミュ」な人物を、
演技力がない大野いとがスクリーン上に作り上げてしまっているのである。
演技力がある「リア充」な人物が「非コミュ」を演じても、
そこにリアリティを感じさせるのは難しい。
(「電車男」を演じた彼らを思い出すと適切かもしれない。)
だが、演技力のない人物がセリフを一生懸命覚えて、
一生懸命演技をすると、スクリーン上には「非コミュ」な人物が出来上がったのである。
しかも、最初は、壮絶にぶさいくである。
「何でお前が映画で主演で出てきてるんだよ!」と言いたくなるレベルである。
しかしながら、ストーリーが進むにつれ、
顔は美しくなり、瞳には輝きがやどり、徐々にセリフまわしが、
最初よりも良くなって行く。
その流れがまさに「非コミュ」→「リア充のちょい手前」を、
演出していて、そのままエンディングへと向かって行く。
ただ1本の映画内でこれほどまで成長する人物もいるのか?
という驚愕とストーリー展開のむちゃくちゃっぷり、
大野いとの演技への苦悩と演じた「春菜」の恋心の苦悩ぶり、
それらがごちゃまぜになった、なってしまっている、
そんな「人間の成長の早回しドキュメント」を、
是非あなたも観てみていただきたいところ。
これを観ずに「可愛い女の子が好き」なんて語るべきではないね。