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南波志帆は「音楽の女優」を指向する。#nanba44 #nanbashiho

雑誌「BARFOUT!」に書かれてたインタビュー。
彼女が思っていたところを、俺はなぜか、何となく以前から理解していた。

今回もタイプの違う曲が集まっていますが、
曲毎に違う女の子になれたと思っていて、
でもその全てが南波志帆なんじゃないかなと思うんです

変に感情を入れ過ぎると、聴いている人が、
感情移入できなかったりする。
だからある程度は抑えるようにしたんです。

そう、分かっていた。俺はなぜか。


きっと、それは、南波志帆に「女優」を見ていたからである。
数多くの「女優」のファンをやっていた俺だからこそ、
見えたのかもしれない。


南波志帆という人に「女優」を見ていた。





とりわけ、世間では「音楽のアーティスト」というと、
自らを主張しなければならない職業と「決めつけられている」傾向があるし、
例えば、それはPerfumeであれば「歌わされている」として、
少しも評価をしないような者も、多くいる。


あまりにくだらない「アーティスト」職業感だ。
思い込み、決めつけ、誤解。
聴く側、というか、消費する側の「嗜好の押しつけ」でもある。


もっと主張してくれ!!俺の目の前で、あなたのオナニーを!!!!
ってな、もんだ。


あぁ、何と醜い。


スクリーンの中の女優さんが、原作本のある脚本を演じて、
「本で思っていた通りの人をスクリーンで見た!!」と、
多くの人に感動を与えている場合、それを
「自己の主張がない。」なんてくだらない評価をする人など、
いないにも関わらず、音楽の世界では、
そういう「レベルの低い決めつけ」が認められている。


きっと、聴く側の人間の頭が弱いのだろう。
そんな奴は、エロビデオでもBGMにして一生を終えれば良い。


曲や、詞が、映画のところである「脚本」であると位置づけて、
創りあげられた「脚本」の中で「音楽の女優」になる事は、
「アーティスト」ではない、のであろうか?


私は、それも、一つの「アーティスト」の形であると考える。


彼女は「脚本」から描きだされたものを読み取って、
それぞれの楽曲の「女優」になれば良い。


この曲は、こう歌う。この曲は、こうだと思う。
それで良い。


もっと、もっと、俺に聴かせて欲しい。
南波志帆」が考えだした「南波志帆」を。